ビデオゲームの夜明け

ビデオゲームの夜明け(1950s - 1970s)

1. 「研究室」から生まれた最初の一歩(1950年代)

ビデオゲームの歴史は、娯楽産業としてではなく、冷戦下の最先端科学技術の粋を集めた大学や軍の研究施設から始まった。世界初のビデオゲームについては諸説あるが、歴史的に重要なのは1958年にアメリカのブルックヘブン国立研究所で公開された 『Tennis for Two』である。

物理学者のウィリアム・ヒギンボーザムが、退屈な研究所の見学者のために、アナログコンピュータとオシロスコープ(波形観測装置)を用いて開発した。画面上には地面を表す横線とネットを表す縦線のみが表示され、軌道計算に基づいた光の点がバウンドする仕組みだった。これは純粋に科学のデモンストレーションとして作られたものであり、特許申請も製品化もされなかったが、後のビデオゲームの概念を先取りしていた。

2. 『スペースウォー!』と計算機文化(1960年代)

1962年、マサチューセッツ工科大学(MIT)のスティーブ・ラッセルらによって開発された 『スペースウォー!(Spacewar!)』は、現代のデジタルゲームの直接的な先祖とされる。当時、家一軒ほどの価格がした超高性能コンピュータ「PDP-1」の性能を誇示するために作られたこのゲームは、2隻の宇宙船が画面中央の恒星の重力に引かれながら、互いにミサイルを撃ち合うという高度なプログラムだった。

この作品はソースコードが共有され、全米の大学に広まったことで「ハッカー文化(技術への執着と共有)」を育む土壌となった。しかし、この時点ではまだ特定の施設にある巨大なマシンでしか遊べない「エリートの娯楽」に留まっていた。

3. 世界初の家庭用機「オデッセイ」の衝撃

1972年、ラルフ・ベア(ビデオゲームの父)によって、世界初の家庭用ゲーム機 「マグナボックス・オデッセイ(Magnavox Odyssey)」が発売された。このマシンはマイクロプロセッサすら搭載しておらず、論理回路のみで構成されていたが、テレビ画面に「動く光点」を映し出すことに成功した。

画面に直接貼り付ける「オーバーレイ」という透明なシートを使用して背景を擬似的に表現し、テニスや潜水艦ゲームをプレイする形式だった。高価かつ白黒の単純な画面ではあったが、「テレビを能動的に操作する」という概念を一般家庭に持ち込んだ歴史的意義は極めて大きい。

4. アタリの設立と『ポン(PONG)』の熱狂

1972年、ノーラン・ブッシュネルアタリ(Atari)社を設立し、アーケード(業務用)ビデオゲーム 『ポン(PONG)』をリリースした。卓球をモチーフとしたこのゲームは、あまりのインカム(コイン投入額)の多さに、設置された筐体のコイン受け箱がパンクして故障したという伝説を持つほどの大ヒットを記録した。

『ポン』の成功は、ビデオゲームが「ビジネス」として成立することを世界に証明した。これにより、エレクトロニクスメーカーが次々と参入し、アーケードゲーム市場が急速に形成されていくこととなった。

5. CPUの登場と表現力の進化(1970年代後半)

1970年代中盤に入ると、ゲーム機にCPU(中央演算処理装置)が搭載され始める。それまでの専用回路によるゲーム(ハードウェアがゲームそのもの)から、プログラム(ソフトウェア)を読み込んで動作させる形式へと進化を遂げた。

1975年にアタリがリリースしたアーケード版『ジョーズ(英語版:Shark JAW)』や、1976年の『ナイトライザー』などは、より複雑なグラフィックとルールを可能にした。また、1976年には世界初の「暴力的表現」が議論を呼んだ 『デス・レース』が登場し、ゲームが社会的な関心や批判の対象となる歴史もこの時期に始まっている。

6. 日本における黎明期と「ブロックくずし」

日本国内では、1973年頃からタイトーやセガといったメーカーが『ポン』に類似したテニスゲームを導入し始めた。特に1976年にアタリが発表し、後に日本で爆発的に普及した 『ブレイクアウト(Breakout)』、いわゆる「ブロックくずし」は、パドルでボールを打ち返して壁を消すというシンプルかつ中毒性の高いゲーム性で、日本独自のゲームセンター文化の礎を築いた。

この『ブレイクアウト』の基板設計には、後にAppleを創業するスティーブ・ジョブズとスティーブ・ウォズニアックが関わっていたことも、コンピュータ史とゲーム史が交差する有名な事実である。